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こと-ばの かた-ちの こと



工 藤 浩






0)一般に「副詞」とか「かざし」とか よびならわされている ものには 形態的に 無変化の「不変化詞」とも よばれる ものが おおく ふくまれている。いわば 「副詞」や「かざし」は 基本的に 形態論的には かたちづけられていない という ことなのだが、では 「副詞」や「かざし」は 文法的に かたちづけられておらず、語彙・意味的に 分類しておけば それで いい といった ものなのだろうか。じっさい 近代日本語文法論の ちち と いわれる 山田 孝雄(1908)『日本文法論』も それに ちかい ことを いって、なやんでいる。なやみながらも、その 語彙・意味的分類を ほどこさないと おちつかない というか ものたりない という 常識感覚も おさえきれない といった ところであったのだろう。「陳述副詞はかかる性質のものなるが、又其の意義の差によりて述語の様式に特別の関係を有せり。之を述ぶるは文典の職にはあらねども一二概括して示さむとす。」(p.530)と のべて、「概括」的に「意義の差」を しめしている。これが なければ、かれの 陳述副詞論も きわめて さびしい ものに おわったであろう。1500ページを こえる 大著に「声音論を 欠く」ことを、「狭義の 文法」に かぎる ことを、「緒言」で わざわざ ことわっておく 山田が なやみながらも 最低限の ものを しめしているのである。「意義の差」を「文典の職にはあらねども」と ことわりながら「示さ」ざるをえない「常識」は どこから くるのであろうか。山田は はたして 矛盾した こと、無用の ことを しているのだろうか。
 そんな ことは ないだろう。たしかに 形態論的には かたちづけられていないが、しかし 構文論的に 文内での 位置(いわゆる 語順)や 他語との むすすびつき(いわゆる 文型) といった<かた・かたち>で あらわされているのでは ないか。そんな ふうに おもわれるのである。構文論の 未発達であった 形態論時代とも いうべき 時代に いきていた 山田 孝雄(1908)が なやむのも 無理は ない。単語は まず 文の なかに もちいられ、その なかで 現実態と なる。単語に とって 構文論的機能の ほうが 一次的であり、形態論の 体系(システム)は その 語形態にまで あらわれてくる 沈澱であり 凝結であり 定着である。中国語(シナ語)に 形態論が あるか どうか うたがう ものが いるにしても、構文論の ひいては 文法論の 存在を うたがう ものは たぶん いないだろう。それは 中国語(シナ語)や 近代英語の ように ほとんど 形態論らしい 形態論を もたない ものも 語順や 補助語(形式語) といった 構文論的な 手順で 文法的な かたちづけを うけている ことを 経験的にでも しっている からであろう。
 という ことで、「言語の 形式」の 問題は、「こと-ばの かた-ち」という ぐあいに こと(事・言)と かた(型・形)とが カタコト コトカタ と おとを たてて やってくる 母音交替形でも ある ことに ちょっとの あいだ たちどまって かんがえを めぐらせて みようと おもう。
 「かた-ち」の「かた」は 形容詞「かた-い」動詞「かた-む」「かた-る」と 同源だろう。「す-がた」は おそらく 複合語であろう (cf.「す-はだ」「す-あし」) 。「かたち」の「ち」が 「はた-ち(二十歳)」「みそ-ぢ(三十路)」の「ち」に ちかいのか、「をろ-ち(大蛇)」「いの-ち(命)」の「ち」に ちかいのか、という ことは いま ここでは とわない ことに する。
 発端は、とある 出版社から でる ことに なっている 文法事典に「言語形式」という 題で ちいさな 文章を いそいで したためた ことに ある。いそがせられた こと(ひとを いそがせた わりには なんと まだ 刊行されていない ようだが)と 枚数制限が あった こととで、かきたりない おもいの すこし のこる ものであった。今回は すこし のびやかに かかせてもらおう と おもう。「とある 出版社」も 文句 あるまい と おもう。

1)てもとの (パソコンに はいっている)辞典 『広辞苑』によれば、「かた(型)」は「個々のものの形を生ずるもととなるもの、または個々の形から抽象されるもの。」、「かたち(形)」は「感覚、特に視覚・触覚でとらえ得る、ものの有様(ただし色は除外)。」と かかれている。
 ちなみに、その 漢語的表現「形式」に ついては、「(form)事物の内容に対し、外から認められるものとしての形。特に、個々の形に重点を置く場合と、通じて見られる型に重点を置く場合とがあり、また、内容と切り離していることを強調する場合がある。」と 一般的に かいた のち、「哲学用語」として「物事の材料・内容と切り離して、構造・型・枠組を抽象してえられるもの。材料・内容を整序し統一する働きをもつ。哲学上の概念としては形相と言われる。⇔質料。」という つかいかたを 紹介している。まあ、その 意味記述は 常識的な ところと いって いいだろう。
 では、言語学の 世界では どう かんがえられているだろうか、筆者の 興味と 関心に ふれてくる かぎりに ざっと みておこう。

2)「言語は 思考・思想の形式である」という 意味での 言語の 形式 という 用語法は、さがせば プラトンや アリストテレスの 書物になど 古代ギリシアの むかしから あると おもわれるが、研究対象として とくに とりあげ くわしく 論じたのは、人文学者として 有名な ヴィルヘルム・フォン・フンボルト(W. von Humboldt)であろう。その 遺稿を 死後 1836年に 編集・刊行した『(通称)カヴィ語研究序説』(邦訳名は 亀山 健吉(1984)『言語と精神』)の "Sprachform" が 最初であろう。フンボルトは 言語の 形式を 外的言語形式と 内的言語形式とに わけ、外的言語形式に おおくの ページを さいているが、その 外的言語形式は 音声形式とも よばれ、その 意味は 音声 という 悟性(知性)の レベル(の 感覚)で とらえられる 形式 という 意味であって、当然 語や 文の 構成も ふくまれており、通常の 言語学者が まず あつかうのは これである(ときに 誤解される ように 音声学・音韻論の 意味では ない)。かれ自身の ことばを かりれば、「精神は分節化した音声を思考の表現にまで高めてゆく役割を果すわけであるが、精神のこういう仕事の中にみられる恒常的なもの、同じような形態を取り続けているものを、できるだけ完全にその関連性において把握し、できるだけ体系的に表現したもの」であり、「発話の構成・構文の規則などを遙かに超えた拡がりを持っているのであるし、更に語を形成する時の規則をすら大幅に超えたものである。」という スケールの おおきい ものである。細部に 精密化を うけていない 部分が のこされている とはいえ、本質的に だいじな 基本線は ほとんど すべて きちんと のべられている。
 内的言語形式 というのは、よく わからない ことも あるが、理性の レベルで はたらく もので、知性(理念)のみならず 感情や 意志 (情意)をも ふくめめた 総合的な 人間精神の 形成に はたらく ものと かんがえられている ように おもわれる。「言語の完成」に ついて のべた 部分で、 それは「音声形式と内面的な言語法則とが結合したとき」に おきると し、また、それは「綜合的な働き」であって「言語を産み出す精神の活動に常に支えられた綜合作用」であると くりかえし のべている。この あたり、「知性」的な「外的言語形式」で それを こえた「理性」の レベルの ことを のべようと している せいか、わたしには よくは 理解できない 部分が のこる。とともに、「かた(形・型)」なくして「こと(言)」も「こと(事)」も ない し、その 逆も 真だ と いおうと している 本稿に とって きわめて 象徴的な ことでは ある と いって いいだろう。
 マルティや ヴァイスゲルバーなど「新フンボルト学派」と よばれる ひとたちには ふれないで、新大陸 アメリカの サピアに いそぎたい。

3)サピア(E. Sapir)の 生前 唯一 市販された 単行本である サピア(1921)『言語』の 第4章と 第5章は、どちらも「言語の 形式(form in language)」と題され、相対的に 独立して はたらく「文法的手順」と 「文法的概念」とを 「形式」の ふたつの 側面と みて それを 副題で わけて 考察し、第6章「言語構造の 類型」という 総合に つなげていく 構成に なっている。文法的手順の 主要な 6つの タイプ として、並置(語順)・合成・接辞づけ(派生)・音韻交替の 4つが 単位の おおきい ものから ちいさい ものへの 順に(つまり 文から 語への 方向で) とりだされ、ついで 擬音・擬態といった 音象徴(⇔言語記号の 恣意性)に かかわる 重複(畳語)と、超分節(⇔言語記号の 分節性)的に 語に かぶさる アクセント(強弱・高低)の 変異との 2つが つけくわえられる。つづく 2つの 章で、概念の タイプ(型式)と 構造の タイプ(類型)が くわしく かつ 総合的に あつかわれるが、それを「一般的な 形式(general form)」とも みていた(第6章 冒頭) ことに 注意すべきである。
 また、原著の ちいさな 索引では、"Form"の 項に "See Structure"と わざわざ ことわっている ことにも 注意しておきたい。つまり サピアは 第4章から 第6章までの 3つの 章で ことばの "Form"の ことを あつかおうと している ことは あきらかなのである。
 ちなみに、第3章は「言語の音声」であるが、それを、一般が そう する ように「言語の 形式(form in language)」としては あつかっていない。「個々の 音は、正確に かんがえれば、けっして ことばの 要素では ない。なぜなら、ことばは、有意味な 機能体であるが、音そのものは なんの 意味も もたないからである。」とまで いっている(第2章「要素」冒頭)。意味を もつ 以前の 音そのものには "Form"性を みとめていないのである。
 さらに、第6章「言語構造の類型」で ラテン語と シナ語とを 比較し、「ラテン語」を「内的形式を有す」とともに「外面的にも有形式」と するのに 対し、「シナ語」は「外面的に無形式」だが「内的形式を有す」と し、「『内的無形式(の言語)がある』というのは、ひとつの幻影であると信じざるをえない」と している あたりには、フンボルトと おなじ 古典的な 精神(方法)を 感じとらざるをえない。20世紀後半を いろどった コンピュータ時代の 二項対立的・二律背反的「形式」観と いかに ちがう ことか。

4)ヴント心理学を 基礎と した 19世紀的な 1914年の『言語研究序説』から いかにも 20世紀的な 1933年の メカニスト宣言とも いえる『言語』へと 自己変革を とげた ブルームフィールド(L. Bloomfield)は、後者の 第10章「文法的形式」から 第16章「形式類と語彙」の 諸章で、心理的要因を 潔癖に 排する たちばからの 記述方法を くわしく 論じている。ちなみに、その 直前 第9章が「意味」である ことにも 注意しておきたい。結論的に いえば、「言語形式(linguistic form)」は「最小 または 合成された 有意味単位」であり、音素の 結合に よる 語彙的形式と、語順・抑揚(二次音素)・音声的変容(音声交替形)・形式の選択などに よる 文法的形式から なると し、感覚器官に とらえられる かぎりで 記述する ための 諸単位を「音素・形態素」といった (当時としては) 新造語を もちいて 煩瑣なまでに こまかかく 設定した。さいわい、半世紀以上の ときの ながれが、煩瑣な よけいな ものは ながしさり、「音素・形態素」といった 本質的で 基本的な ものだけ のこしてくれている。
  日本では、服部四郎が これを 技術的な 面のみ うけつぐ かたちで、「具体的言語単位と 抽象的言語単位」との 区別を たてて 操作的に より あつかいやすい かたちに 整理した うえで、「付属語と 付属形式」とを 区別する 具体的な手順・基準を 提示するなど している。これも 部分的では あるが、橋本 進吉の 形式重視の たちばを より 先鋭的な かたちに しあげる という 点で、一度は とおらなくてはならない 通過点であったのだろう。ただ、自立語と 付属語の 区別も わすれ、サピアの いう ネイティブの「(単)語意識の たしかさ」を 付属語に みようと する むきも 服部の 亜流には いて、技術主義・操作主義も、いきすぎると 本末転倒を ひきおこして しまいかねない ようである。

5)明星学園・国語部(1968)『にっぽんご 4の上 文法』と その 解説である 鈴木重幸(1972)『日本語文法・形態論』は、さきに ふれた アメリカの サピアや ロシアの ヴィノグラードフ(V. V. Vinogradov)(1947)『ロシア語』などを うけつぎ、田丸文法・宮田文法や 松下文法・佐久間文法などを 発展させる かたちで、日本語の 品詞全体に わたる「形式・形態」の 具体的な 組織化・体系化を こころみている。
 分析的な 形式「して いる」を ひとつの 機能体として みとめる ことによって、「する−して いる」という 対立、つまり アスペクト という 文法的な カテゴリを 発見し、記述する ことにも 成功したし、「yar-e」「し-ろ」「し-なさい」「して ほしいんだ けど」「して ください」「して いただけませんか」など さまざまな かたちで あらわれる 命令的な モダリティを 統一的に とらえる ことにも 成功した。記述は いまだしい としても。
 奥田靖雄(1985)『ことばの研究・序説』などは、サピアの 並置(語順) という 文レベルの 部分を 拡充発展させる かたちで、不変化詞としての 副詞や 用言の 終止連体形など 語レベルの 形式で 区別されない ものに ついて その ありかたを かんがえた。ブルームフィールドらに よって すでに とりだされていた「位置(position)」や「分布(distribution)」といった より 形式化された 手段、それに 単語の カテゴリカルな 意味(categorical meaning)を くみこんだ「連語の かた(型)」や「文の 内部構造(さらに 意味的構造・機能的構造に わけられる)」が、いわば 構文論的な 形式として はたらく と みている。
 たとえば、
  (a)ゆっくり あるかない。     [ゆっくり あるか]ない。
  (b)しばらく あるかない。      しばらく[あるかない]。
  (c)ろくろく あるかない。  cf. × ろくろく おもく/事故では ない。
  (d)けっして あるかない。  cf. ○ けっして おもく/事故では ない。
などを くらべてみると いいだろう。ちょっと て(操作)を くわえれば、外見上 おなじ ような かたちを していても、文の 意味的・機能的な 構造が それぞれ ことなっている ことは みやすい ことだろう。そして この ばあいにも、文の「かたち」が ちがっている と いうだろう。
 さらに、アスペクト(性)や モダリティなどの 文法的な カテゴリに おいては、その ありかたを きめる 条件(環境)として 文を こえた「段落の 構造」も 形式として はたらく、と する かんがえを しめしている。
 たとえば、つぎの ような 例文では、
  (a)その 晩、金沢の ○○ホテルに とまった。翌日 能登に むかった。
  (b)その 晩、金沢の ○○ホテルに とまっていた。よなかに 地震が あった。
おなじ「その 晩、……… とまる」という できごとが、他の できごとと つらなり(連鎖)と とらえられれば「した」と 表現され、他の できごとと であい(共存)と とらえられれば「していた」と 表現されるのである。つまり できごとの 連鎖か 共存か という「段落の 構造」が <した−して いた>という アスペクト形式の どちらを つかうか という ことを きめている という わけである。客観的な 時間の ながさ(継続 という 時間量)が きめているのでは ないのである。
 以上の ように、ことばの かたちに ついての かんがえは、おおきくは フンボルト ⇒ サピア・ヴィノグラードフ ⇒ 奥田靖雄、と ふかめられてきた と かんがえられる。

6)専門用語としての「かたち・形式(form)」という 術語は、一般に 内容 または 質料(素材)に 対して コト(しごと・できごと)が おこる「しかた・ありかた」を いう 術語であるが、そのさい、かたちを、内容と 密接な 連関の なかに あって コトの 構成の 骨格を なすと みる たちばと、内容と 無関係な 単なる 外部と みる たちばとが、おおきく ことなる 両極の かんがえとして ある。かたちの ことを、前者では「形相」、後者では「外形」とも よびならわしていて、かたちに 対する かんがえかたの ちがいに よって、さまざまな 研究方法や 分析手法の ちがいが うみだされている。
 と、中立を よそおえば こう いわざるをえないが、本稿では 当然、前者 つまり 形式と 内容の 密接な 連関を 重視する たちばに たとうと している わけで、そこでは、かたちが <コトが おこる「しかた・ありかた」>である という 点に 注目したい。
 この ばあいの 「-かた」は ふつう「方」という 漢字を あてるが、この どの 漢字を あてるか という ことは ひとまず (古代)中国語の 問題であって、(古代)日本語の 問題では ない。とくに アクセントが ちがう という ような 問題が なければ 同一語・多義語と みる ほうが 定石に かなっている と かんがえられる。もともと 空間的な「方向・方角」を あらわしていた ことばが どのようにして 「方法・状態」的な 意味(ex. 料理の つくりかた・いたみかた)に 抽象化したか、また、それが 「形」や 「型」という 意味と どう 関係するか、については くわしくは まだ あとづけられないが、論理的に ありえない 変化だとも おもえない。
 一歩 ゆずって「かた(形・型)」と「かた(方)」とが 別語だ としても、コトと カタとが 母音交替形として ある という ことには かわり ない。「ことば」が 型・形や 方法・状態の 意味の 語と 相即不離の 関係に ある という ことが だいじな ことなのである。「ことば」が 個別・具体的な「かたち」や 一般・抽象的な「かた」と、そして 無意志的な「ありかた(状態)」や 意志的な「しかた(方法)」と、密接な 関係に ある という ことが 肝要なのである。「ことば」の 意味 という それ自体 としては 感覚に とらえられない ものが 音形として「かた(形・型・方)」と 母音交替形として ペアを なす ものとして とらえられている という ことが 肝腎なのである。
 思考対象 としての できごと や しごと という 意味の コトは、おそらく 言語・コトバ なくして 存立しないだろうが、その コトは 「かた(形・型・方)」との 連関 なくしては 生じない とすれば、どういう ことに なるだろうか。ものごとの「みとめ(認識)」や「かんがえ(思考)」は、ことば(言語)の かたち(形式)に しかた ありかた(方法・状態)の レベルまで とりつかれている という さだめ(宿命)を もっている ことに なるだろうか。
 こうして <コト なくして カタ なし、カタ なくして コト なし>という ことになる。「こと」と 「かた」とが 一方だけでは なりたたず、同時に からみあって 成立する 二即一の できごとであり、 他即自の しごとであり、相即不離の ことがらである ことが すこしは あきらかに なったであろうか。

合掌。

 くどい かもしれないが、合掌した とき、みぎの ては ひだりの てに さわっているのだろうか、さわられているのだろうか。言語的には ヴォイス(voice, 態diathese)の 問題であり、ことばと ことがらとの 対応が 一対一の 対応ではない ことを ものがたり、また 触覚 という 低級 と される 感覚の はなしでは あるが、みぎてと ひだりてとは てを あわせる という ことがらにおいて からみあい、ついには とけあうのであろうか。

ふたたび 合掌。


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